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秋宮神楽殿の図面発見
2017年6月26日
宮大工・宮彫りの流派「立川(たてかわ)流」の2代・立川和四郎富昌(1782〜1856年)が手掛けた、下諏訪町の諏訪大社下社秋宮神楽殿のものと思われる社殿図が見つかり25日、秋宮参集殿で立川流関係者による報告会が開かれた。図面は秋宮付き大工だった三井家の子孫に当たる両角家=同町立町で旅館・桔梗屋を経営=に保管されていたもので、立川流などでつくる調査委員会では、富昌によって描かれた神楽殿の図面と断定。富昌が三井家に工事内容を説明する「プレゼンテーション用に提出されたもの」とし、宮付き大工の三井家を立てた上で施工したことを物語る「儀礼的な資料でもある」と位置付けた。
調査委員会は建築士や立川流棟梁家保存会、立川流彫刻後援会など13人で構成。桔梗屋の両角萸美さんによると、図面は三井家の直系にあたる祖父の両角政人さんが1915(大正4)年、同家に残されていた建築図面を一冊にまとめた「諏訪神社棟梁宮大工職 三井家 建築図集」の中にあった。両角家から立川美術館・立川流彫刻研究所(愛知県半田市)に依頼があり、2014年から調査を進めていた。
図面の大きさは縦67センチ、横93センチ。報告会は歴史的観点、彫刻的な視点、下絵画家の意見・検証など多面的に行われた。実際の神楽殿と比べると、図面では屋根から下がる縣魚(げぎょ)奥にある蟇股(かえるまた)=寺社建築で梁(はり)などを支えるもの=が、正面の虹梁(こうりょう)上部の束(つか)の位置に描かれているなど若干の相違があるが、これについて調査委員会では「三井家や諏訪大社にプレゼンテーション(説明)するために、隠れた部分の蟇股を、あえて分かりやすく束の部分に描いたのでは」と説明。
虹梁下部の眉と呼ばれる飾り彫りについては、始まりの角度から諏訪立川流との違いが明らかで、「三井家の関わりが考えられる」とした。立川流は大隅流から出て江戸で修業した初代・和四郎富棟(1744〜1807年)が、秋宮幣拝殿の改築を請け負い、富昌の時代に隆盛を極めた。発見された神楽殿の図面からは、大隅流の下社付き大工だった三井家を、富昌が立てていた儀礼的背景をうかがわせている。
立川流六代目棟梁の立川芳郎尚冨さん(半田市)は「立川流の歴史の中でも非常に面白い資料。実際には隠れている部分を手前に描くなど、一枚で全てが分かるように配慮されている」とし、立川流が諏訪大社の仕事にどうやって入り込んでいったか、空白の部分を明らかにする歴史的・儀礼的な資料として重要と述べた。
両角さんは「三井家の現在の直系にあたるいとこ・三井文雄さん(千葉県在住)の了承が得られているので、図面をお宮(諏訪大社)に寄贈して保存したい」と話した。
(写真は、発見された秋宮神楽殿の図面。2代富昌を思わせる流麗な線で描かれている)