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無藝荘で「夏の小津会」
2018年6月25日
蓼科高原を晩年の仕事場に据えた日本映画界の巨匠、小津安二郎監督(1903〜63年)をしのぶ「蓼科・夏の小津会」が24日、小津監督の別荘を移築した茅野市北山の「無藝(むげい)荘」で開かれた。約20人が訪れ、1954年に小津が初めて蓼科に足を踏み入れた日から記述が残る「蓼科日記」を基に、その暮らしぶりに思いをはせた。
蓼科日記は小津の盟友の脚本家、野田高梧(1893—1968)の山荘「雲呼荘」に置かれていた18冊の日記で、両作家の日常が垣間見える。
この日は、シナリオ執筆に関わる主要部分を抜粋して2013年に刊行された「蓼科日記抄」の刊行会事務局長で、「小津安二郎記念・蓼科高原映画祭」の発案者でもある北原克彦さん(70)=原村=が、無藝荘と小津との関わりを中心に話した。
北原さんは、小津が仕事場や東京から来る映画人の接待に使った無藝荘について、所有者の片倉家から借用するに至った経過が分かる日記を順に紹介。57年にはシナリオの完成を祝ってプロデューサーや蓼科の住人ら総勢20人が集まって歌い踊り、酔いつぶれる大宴会が催されたことが記されており、「小津や野田が無藝荘で脚本を書いているのを地元の人みんなが応援していた」と解説した。
また、56年9月に小津と野田が懐中電灯の光を頼りに蓼科の石ころ道を歩いているときに「東京暮色」(57年)の映画タイトルを思い付き、すぐに決定、ストーリーの概略や人物の輪郭もほぼ決まった—とする記述があることや、相撲と野球が大好きだった小津がホテルまでテレビを見に行ったなど、日記から分かる貴重なエピソードも紹介した。(写真は巨匠の日常を見つめた小津会)